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大島紬が熱狂的に大流行した時期と模様

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文:富澤輝実子

現在でも大島紬の人気は高く、多くの着物愛好家を魅了してやみませんが、明治から大正時代にかけて裕福な奥様・お嬢様たちに熱狂的に大流行した時期がありました。そのわけをお話いたしましょう。
まずは、大島紬の歴史から。

奄美大島は瑠璃色の海に囲まれた島

大島紬は鹿児島県の奄美大島で生まれた織物です。奄美大島は瑠璃色に透き通る海に囲まれた大きな島で、亜熱帯の気候に育つ緑濃いソテツやアダン、ブーゲンビリアやハイビスカスなどの鮮烈な赤い花、バナナやパイナップルという南国の果物が実る豊かな島です。

薩摩藩に欠かせない重要産品に

その島で織物が始まったのは遥か日本神話の時代からと伝えられてきましたが、それではあまりに遠いので、今少し現代に近いところから始めます。ずっと降って江戸時代、奄美大島は薩摩藩の直轄地となり、その時すでに「琉球石高」に大島紬を勘定していたことが知られています。もちろん、最大の産業は黒糖製造でしたが、紬製造も重要産業となっていたことが分かります。そして、薩摩藩への貢納布として重きをなし、薩摩藩の税収に欠かせない重要産品となっていました。

テーチ木と泥染を重ねる製法の始まり

貢納布としての歴史が長かったため、大島紬が一般に知られるようになったのは明治10年ごろからです。当時はまだ真綿から紡いだ糸を芭蕉の繊維で括り染めした簡単な絣柄(かすりがら)を腰機(地機)で織ったものでした。糸染も「テーチ木と泥染」を重ねる染色法に産地で決めたのが明治13年、その後、奄美の人が鹿児島に渡って大島紬製造を始めたのが18年です。23年ごろから東京や大阪方面で大島紬の販売が始まり、日清戦争後の明治28年からは需要の伸びに合わせて生産を拡大するため材料の糸は手のかかる真綿手紡ぎ糸から玉糸へ、織機は腰機(地機)から高機に移行しました。

※大島紬は現在「紡ぎ糸ではなく生糸の本練糸(絹糸)」を用いた織物ですが、はじめ「真綿の手紡ぎ糸」を用いていたため大島紬と呼び習わされています。

締め機(しめばた)絣製造法の発明

『本場奄美大島紬協同組合八十周年記念誌』には明治34,5年ごろのこととして次のように記述されています。「先覚者の重井小坊(しげい・こぼう)氏が締機による絣作りを研究し、大工・熊吉に締機を製造させていた」が無念にも機の完成間近の40年に35歳の若さで亡くなってしまったというのです。この作業場にしげく出入りしていたのが永江伊栄温(ながえ・いえおん)氏で、重井氏が没したその年に締め機絣製造法を「普通締」として完成させ、公開しました。この締め機絣製造法によって大島紬は格段の発展を遂げることになりました。その時から、原糸も「節のあるのが特徴の玉糸」から「生糸の本練り糸(現在の絹糸)」に替りました。

龍郷柄の大流行

締め機で絣を作るようになってからの大島紬は模様が格段に緻密になりました。この緻密な絣技を駆使した模様の代表で、ことに人気を博したのが現在でも愛好家の心を躍らせる「龍郷柄(たつごうがら)」でした。龍郷というのは地名で模様に特徴があります。その特徴は、島で「厄除けと金運」の効果が信じられているハブと身近にある棕櫚(しゅろ)を組み合わせた幾何学柄です。手元にある大正8年の資料写真を見ると、まだ年若い女性が龍郷柄と思われる模様の大島紬を着物と羽織のお対で着ています。1反でも大変高価だったに違いない大島紬をお対にするには2反(1疋)必要です。裕福な家の方と察せられます。もう1枚、大正12年の写真があります。大勢の奥様方が手芸の講習会で作品製作中のものですが、写っているほとんどの方は大島紬をお対で着ています。大正時代に龍郷柄の泥大島が大流行したことがよくわかる写真です。
当時、大島紬のように細かな絣織物は見当たらず、泥染という土の香りのする織物にもかかわらず、繊細緻密な絣技と艶やかな質感、軽くて滑らかな地風のもつ高級感に多くの女性(男性も)引き付けられたことでしょう。
このころの大島紬の生産高を見ると、大正5年に奄美で約14万反、鹿児島で約7万反だったものが5年後には奄美で約33万反、鹿児島で約41万反の計約74万反と大きく増産しています。それどころか、昭和51年には奄美・鹿児島両産地で計約97万反という驚異的な生産を記録しました。

※大島紬大流行のもととなった細緻な絣模様は、締め機絣製造法を考案した重井小坊さんとそれを完成させて公開した永江伊栄温さん、そして大島紬特有の「木綿針で経絣を動かし、絣を正確な十字に調整する絣合わせ技術」を考案した浜上アイさん(喜界島出身)の工夫と研究によって得られたものと言えるでしょう。

エピソードをひとつ

明治37,8年ごろのお話です。まだ大きな絣織物だったころなのですが、当時、絣の印は織元が付け、くくり作業は毎夜の夜なべ仕事で若い男女が持ち回りの作業場に集まり、ほの暗いランプのもとでその日の出来事や世間話をしながらしていたそうです。仕事というより娯楽に近い楽しい作業で、絣くくりが終わると酒やトーフ、ソーメンなどのごちそうが出て島唄と踊りで締めくくったと、前出の記念誌に出ています。絣をくくりながら悩みを打ち明けあったり、何かしくじった仲間を慰めたり、励ましたりという若者の様子が目に浮かぶようです。

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