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明治女学生と銘仙

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文:富澤輝実子

明治から大正の女学生の写真には銘仙を着ている姿が多く見られます。当時の写真はモノクロですから色は分かりませんが、その時代に実際着ていた現物を見るとかなり大柄の絣が目立ちます。
また、明治、大正、戦前を舞台にした演劇やドラマに出てくる女学生はたいてい銘仙を着ていますから、大流行した着物だったことも分かります。
大正生まれの方にいろいろ取材した頃のことですが「女学生全員が銘仙を着ていたのよ」と 教えていただいたことを思い出します。
今回は「女学生と銘仙」についてお話しします。
まずは、銘仙の歴史から。なかでも最大産地だった群馬県・伊勢崎の銘仙を例に挙げてみます。

江戸時代の「太織(ふとり)」から

現在でも群馬県は日本一の養蚕県(国産繭のおよそ4割は群馬県産)ですが、昔から養蚕の盛んな土地柄です。江戸時代後期・文化年間には農閑期に「生糸にできない品質の劣る繭を真綿にして糸を紡ぎ出し、身近にある草根木皮で染めて機に掛け、自家で織り上げた縞織物を市(いち)で売っていた」ということが『伊勢崎織物同業協同組合史』に記されています。この織物が「伊勢崎太織」で銘仙のルーツとされています。
明治時代になると「伊勢崎太織」ははじめ「銘撰」のちに「銘仙」という表記で市場に出ていきます。手ごろな価格の絹織物ですが、木綿織物とほとんど変わらない絣柄でした。
それが明治末には大きな絵絣の「珍絣銘仙」ができ、さらに友禅のような華やかな模様を織り出した「併用絣銘仙」が生まれました。
この画期的な模様銘仙が生まれるきっかけとなったエピソードをご紹介します。

女学生の姿の変遷

明治初期に女学校が開かれ、主に上流階級、しだいに裕福で教育熱心な家の子女が女学生となっていきました。はじめ一般女学生の身なりは質素であることが求められたはずですが、特権階級のお嬢様は「おしゃれをしたいお年頃」ということもあって華やかな装いに傾いた学校もあったようです。
明治38年、日露戦争勝利ののち明治天皇の信任厚く学習院長となった乃木希典将軍(伯爵)は、就任初のあいさつのおり女学部生徒の身なりがあまりに華美なことに驚き、「これより女学生の身なりは銘仙以下とする」と決めたというのです。このことは婦人画報社(現ハースト婦人画報社)刊『ファッションと風俗の70年』中で安田丈一氏がお書きになっています。

女学生はおしゃれのリーダー

驚いたのは女学生です。それまで友禅縮緬の長い袖の華やかなきものを着ておしゃれを楽しんでいたのに、もう友禅のきものを着ることはできなくなったのです。「銘仙以下」というのは銘仙と木綿です。その頃の銘仙はほとんど木綿と同様の実直な絣織物なのです。
女学生はおとなしく言われたとおりにするかと思ったら、いやいやそんなことはなかったのです。女学生のあふれるおしゃれ心を押しとどめることは困難だったようです。女学生は考えます。そして「友禅のように華やかな銘仙があれば解決するわ!」とひらめいたのでしょう(笑)。百貨店の呉服部などに希望を伝えたでしょうし、呉服部などから発注を受けた産地でもがぜん新規開拓の意欲がわいたことが推測できます。
ちょうどその頃伊勢崎産地は変革期にあって、新しい製品の開発が課題となっている時期でした。そして大きな絣の珍絣と、経絣にほぐし絣の技法を用い、緯絣には絵絣の技法を用いて両方の絣を併用した大変難しい絣技を駆使した「併用絣銘仙」を作り出しました。友禅のように華やかな多色使いの銘仙の誕生でした。
この銘仙は女学生に大流行し、一般の女性にも広く普及しました。
現在私たちがさまざまな展覧会や写真展などで目にする「銘仙」はほとんどが華やかな絣織物です。それは、明治時代の女学生のおしゃれ心のエネルギーが産地を動かして作り出された新しい織物だったと言えましょう。いつの時代も「女学生はおしゃれのリーダー」なのですね。
最近資料を読んでいましたら、先に「乃木希典将軍のお言葉」とされている「学習院女学部女学生の身なりについてのお言葉」は「昭憲皇太后のお言葉」として出てきました。

大流行を証明する生産反数

銘仙は群馬県の伊勢崎が最大産地でしたが、群馬県では桐生、栃木県の足利、埼玉県の秩父、東京都の八王子が五大産地ですべて関東にあります。
生産反数では昭和5年が最高ですが、伊勢崎はおよそ456万反、五大産地全体でおよそ1200万反です。とても女学生が着ただけでは間に合わない驚異的な数字です。日本中の女の方に愛用されたことが分かります。

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