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【富澤輝実子】着物トリビア:丹後・丹後縮緬の最古の現存資料は正倉院に・・・・

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文:富澤輝実子

礼装から普段着まで染めの着物のほとんどは縮緬(ちりめん)や綸子(りんず)などの白生地に染められています。その白生地の織り端部分を注意して見ると「丹後ちりめん」という黄色いスタンプが押されていることに気づきます。京都府丹後で造られたことを証明しているマークです。

丹後ってどこにあるの?

丹後は京都府の日本海側にあり、なかの京丹後市一帯(旧与謝郡、旧中郡、旧竹野郡が中心地)が丹後縮緬の産地です。この地方は「弁当忘れても傘忘れるな」と言うくらい雨の多い土地で、湿潤なその気候が縮緬の生産に好都合だったといいます。ゆかしい言い伝えのある風光明媚な土地でも知られています。日本三景のひとつ「天橋立(あまのはしだて)」はすぐ近くの名所ですし、網野(あみの)は源義経に愛された静御前の出生地、由良の湊は『安寿と厨子王』の物語で山椒大夫がいたところで有名です。

丹後は日本一の織物産地現在丹後では従来の白生地生産ばかりでなく、西陣の帯や御召などの着尺、そのほか多くの織物を生産しており、その生産数は日本一ということはあまり知られていないかもしれません。

丹後縮緬の最古の現存資料は正倉院に

令和の御代になって初めての正倉院展は東京国立博物館で開催されます。私は例年、奈良国立博物館で開かれる正倉院展を観に行っていました。そこではおよそ1200年も前の美術・工芸作品や文献資料が展示され多くの見学者を魅了しています。そこには古く奈良時代に各地から朝廷に貢納された染織品も展示されるのでした。
丹後からの貢納品として知られるのは天平11年(739)に「絁(あしぎぬ)六丈一疋」が「丹後国竹野郡鳥取郷(現在の京丹後市弥栄町鳥取)」からのものという記録とともに正倉院に保存される現物です。これは丹後産と分かる最古の現存資料なのです。もし、今年の正倉院展で見られたら本当にうれしいことです。

丹後が縮緬の里になったわけ

古く長い織物の伝統がある丹後ですが、縮緬を織るようになったのは先述した正倉院に残る絁の記録からおよそ1000年後の江戸時代からです。もともと縮緬という織物は綸子などとは異なり比較的新しい織物です。それは江戸時代になる前、豊臣秀吉の治める時代に現在の大阪・堺に技術者とともに入ったのが初めです。そして西陣で織り始められますが秀吉はその技術を手厚く保護します。西陣以外で縮緬を織ることはなく、技術は門外不出の秘法でありました。そのルーツを語るエピソードが残されていますので、少し長くなりますがご紹介します。

「西陣で絶対の秘密」とされていた「縮緬糸の撚糸の方法」

江戸時代享保年間(1716~1736)将軍は徳川吉宗の時代のことだそうです。その頃丹後産地の織物業は衰微し、その窮状を何とかしなければと考えたのが絹織物業を営んでいた「絹屋佐平治という人で、活路を見出すため織物の最先進地・西陣の織屋に奉公に出ます。西陣は最高級の織物を生産する最大産地であるとともに白生地の精練も大きな産業でした。佐平治は信仰する観世音菩薩のお告げに導かれての西陣行きだったそうです。奉公で何を学びたかったかというと「西陣で絶対の秘密」とされていた「縮緬糸の撚糸の方法」だったのです。皆様ご存知のように縮緬の最大の特徴は布面にシボがあることで、シボを出すために織り込む糸の作り方が秘法だったのです。それは「糸に撚りを掛ける」ことだったのですが、撚りを掛ける作業は「土蔵造りの密室」でなされているため誰も見ることができないものでした。佐平治はある夜、暗闇の中をひそかに忍び込み手探りで糸を撚る仕掛けを確かめると飛ぶように丹後に戻った」と伝えられています。スリル満点の逸話ですが、北村哲郎先生はご自身の著書『日本の織物』中で「今様に言えば産業スパイの一大サスペンス」とおっしゃっています。
ほかにも、加悦後野(かやうしろの)の木綿屋六右衛門という人がやはり加悦の手米屋小右衛門、三河内の山本屋佐兵衛の二人を西陣に学ばせ、独特のシボをもつ縮緬の製法を郷里に戻ってから広く伝授したといわれています。丹後ではこの4名を恩人と尊び今もその名を称えています。

日本一の精練の聖地となったのは

長く丹後は白生地を織り上げた生機(きばた)のままで業者に渡し、京都中心部で精練されていました。精練は京都中心部の一大産業だったのです。ところが生機では気づかなかった織傷などが精練後に分かることが多発したため、精練まで産地で責任を持つことが求められました。そこで、精練の態勢を整え試行したのが明治時代、本格的に開始したのは大正時代でした。力織機が普及し、昭和9年の調査では、機業戸数1434、織機台数1万2140、生産は96万6000貫(1貫は3.75㎏)という一大産業に躍進しました。
その後、最大となったのは昭和44年から48年までの間で、最盛期は一日2万反を生産したといいますから、ただ事ではない数値です。ちょっと計算が合わないとお思いになるかも分かりませんが、最大の年産の取材のときに「もじき1千万反に届きそうやったんですよ」ということを聞いた覚えもあります。有名な女流作家の産地訪問記で「お医者様の家以外はどこの家にも自動織機が据えてあり、一日中ガシャンガシャンという重い織機の金属音がしていた」というようなことを読んだ記憶があります。
※私たちきもの愛好家が友禅の着物を着るときに無意識にですが「縮緬があってよかった」と思うのではないでしょうか? もし白生地に縮緬が無かったら美術的・工芸的価値は今ほど高まらなかったかもしれません。上品な光沢としなやかな地風、美しい染め上がりなど私たちにとってなくてならない生地となっているのです。

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