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着物ブログ

着物ってなんだろう?

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文:富澤輝実子

私たちは通常何かしらの衣服を身に着けて生活しています。この身に着けている衣服が「着る物」ですから「着物」というわけなのですが、一般的には「着物」は「和服」をさしています。和服は和(日本)の服のことで洋服(西洋の服)に対応している名称です。
では和服の歴史を簡単にお話ししてみます。
古い順に並べてみますと

古墳時代

和服と言えるかどうか分かりませんが、埴輪(はにわ)に見られるようなツーピース仕立ての衣服が知られています。胡服(こふく)という騎馬民族由来の衣服で、下衣はズボンのような形で馬に乗るために都合の良いスタイルです。古代の衣服は基本的にツーピーススタイルです。

飛鳥・奈良時代

実物資料がありませんので、絵画や肖像画、仏像や物語などを資料に想像するしかありませんが、唐(現在の中国)のスタイルを模倣したと考えられています。
唐はその頃の最先進国ですから手本と仰ぎ大量の文物を輸入したのです。
高松塚古墳の壁画や奈良・薬師寺の吉祥天像などに見られるいわゆる天平美人の姿から想像できます。
上半身は前合わせのブラウスのようなもので、下半身はスカートのようなものをはいています。

平安時代

奈良時代の唐風の形式が発展し国風(日本様式)の衣服が形成されました。
それが世界一豪華な衣装と言われている「十二単(じゅうにひとえ)」です。この十二単が簡略化されたものが小袖につながります。
もちろんこのように大げさな衣服は高貴な方々のもので、一般庶民はずっと簡単な衣服を身に着けていました。
平安文化の特徴は国風文化が確立されたところです。もう唐の模倣ではなく日本独自の美意識のうえに文化が醸成されていきました。花鳥風月、雪、霞、霧などの自然現象や季節の移り変わりに現れる美を鑑賞の対象としました。
襲(かさね)の色目は四季折々の植物の色で表し、重ねたことで見える優しい色をめでました。
そこはかとなくほのぼのとした美を「匂い」と表現してめでました。
「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」という本居宣長の歌は有名です。

原色で表現するのではなく控えめで優しく、そこはかとなくにじみ出る美しさを日本人は貴んだことが分かります。そして春夏秋冬の季節が運ぶ自然のなかに美を見出しています。
また、後ろ姿の美を考えた衣服でもあります。
また文様も「有職文様」という模倣でない日本独自の文様が生まれました。

鎌倉・室町時代

平安時代の貴族が着ていたいわば肌着であった小袖が下着から上着になりました。
この小袖が現在の着物と形が同じです。
小袖は日本の衣服として最終的に到達した完成された形と言えるでしょう。
もちろん庶民はずっと簡単な衣服を着ていたことが「扇面古写経」(四天王寺蔵)などで見ることができます。
また、この時代の物語や絵画から旅装束を知ることもできます。
ことに、足利義政による東山文化は茶道、香道、立花(いけばな)が始まり、能楽が発展したことが知られています。能楽はその装束の美しさが大きな魅力となっていることは、もし簡易な衣服で能という演劇がなされた場面をイメージすると、装束の果たしている重みが感じられることでしょう。

桃山時代

戦国時代を勝ち抜いた武将たちと堺や博多の貿易商の富で築いた文化と言えるでしょう。桃山は秀吉の伏見城の合ったところで、長谷川等伯などがふすまや壁に絵を描いています。着物の特徴は片身替りと肩裾模様。片身替りは左半身と右半身の模様を替えたもので大変インパクトのある模様付です。肩裾模様は肩の部分と裾に模様があってその間は白く空いている模様付です。
辻が花もこの時代に現れた描き絵、刺繍、摺り箔で模様を表した染色です。
この桃山の最後を飾る芸術家が俵屋宗達です。本阿弥光悦とともに琳派の祖とされている人です。また、茶道の大成者・千利休もこの時代の芸術家と言えましょう。

江戸時代

江戸初期は桃山時代のつながりですが、慶長小袖が白眉(はくび)と言えます。慶長模様は着物全体に絞り、刺繍、印金技法を駆使して細緻で華麗な文様を表現したものです。
その後、江戸初期には寛文模様という肩と裾とが大きな半円状に模様を配置した着物が流行しました。
次は元禄模様という大胆な模様の中に細かな加工を施したものが流行しました。それは友禅染が考案されそれまでにない染めができるようになったことが大きな理由です。
この元禄時代には日本文化が華やかに発展しました。
例えば歌舞伎、浮世絵、銭湯風呂、文芸(松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶、近松門左衛門、井原西鶴)などさまざまに発展しました。それは町人の豊かな経済力に後押しされたからのことでしょう。

明治時代

全体に着物は地味になりますが上流階級の方々は二枚襲(にまいがさね)、三枚襲(さんまいがさね)の五つ紋付裾模様のきものを着用して重々しいよそおいでした。江戸小紋(当時はただ小紋)、風通御召(江戸小紋そっくりの柄の織物)、龍郷柄の大島が流行しました。友禅はごく一部の上流階級の人の物でした。
西洋との交易が盛んになったため、合成染料がドイツから輸入され、それまでの植物染料、顔料とは異なる色彩の着物が登場しました。

大正時代

合成染料が次第に普及し、その扱いにも慣れたため、強烈な色彩の着物が登場しました。
華やかな友禅、華美な小紋、強烈な銘仙などは大正時代を象徴するものでしょう。
また、大正時代は「刺繍半衿と長羽織の時代」と言われるくらい、丈の長い羽織が大流行しました。はじめ防寒のために着たものですが、しだいに、おしゃれでエレガントな着姿に魅了されたのでしょう、写っている全員が長羽織姿という大正時代の集合写真がたくさん残っていて圧倒されます。
また、刺繍半衿は芸術性の高いデザインンと刺繍の手わざが調和した見事なものが残されていることが、池田重子先生のコレクションで分かりますし、「日本のきもの展」などで鑑賞することができます。

昭和時代

戦前は大正時代のつながりですが、戦後は衣生活が一変しました。大正時代を象徴するほど大流行した長羽織は消え、代わりに登場したのは茶羽織です。茶羽織はお尻がやっと隠れるくらいの丈の短い羽織で、一反の着尺地で二枚の羽織ができました。通常羽織の衿はひと幅をたたんで細い衿にするのですが茶羽織は半幅で衿を作ります。戦後は生地がありませんから一反で二枚の羽織をこしらえました。
男性は戦後すぐから洋装になるのが早く、仕事には洋服で出かけ、家に帰ると着物に着替えるという「サザエさん」の波平お父さんのようなスタイルの方が多かったのです。ところが女性はなかなか着物から離れることができず、着物を着続けました。それは、現在のように既製品の洋服が売られていないため、自分で作るか洋裁のできる方に頼むしかなかったからでしょう。いっぽう、戦前に娘時代を過ごした方は女学校などで和裁は必修科目だったのですから、どなたも着物や帯、袴一式は縫い上げることができたのです。
昭和で特筆したいのは「振袖、訪問着の普及とそれに伴う錦織の袋帯の普及」です。
戦前まで振袖や訪問着をお召しの方は限られた方々でした。帯も礼装にはほとんど丸帯を締めていました。それが、昭和34年の当時の「皇太子ご成婚」を機に、さらに池田隼人内閣が昭和35年に発表したいわゆる「国民所得倍増計画」によって景気が上向き、飛躍的に各戸の生活は向上し、一般の女性の着物も格段に上質なものになったのです。

平成時代

お好みに合わせていかようにも選択できる豊富な着物の海を泳いでいるかのようです。
現代では着物はファッションの一部門なのでしょう。月曜日から金曜日までの働いている日は洋服で過ごし、土曜・日曜の休日には着物を着てお稽古やその他のお出かけをする、といった素敵なライフスタイルを選択できるようになっています。
さらに、日本に訪れる海外からのお客様の着物熱を身近に感じられるようになってきました。東京では浅草の浅草寺周辺では毎日多くの外国人の男女の着物姿が見られます。みんな楽しそうです。「着物を着ることで日本を味わい、着物を日本文化の代表」と思っているのでしょう。
令和の今年からは着物は日本人だけのものではなく、世界の人々に愛される民族衣装として認識されるような気がします。
着物は暑さ寒さを調節するための実用着や、他との識別のための目印に着るものから始まり、威儀を正すもの、美麗に装うものへと変化し、ファッション性に重きが置かれてきました。現代ではまさにファッション性が重視されています。ただ、着物は単にきれいならばそれでいいとは言い切れないのです。しきたりや習わし、ちょっと知っておくとより素敵になり、装うことが楽しみになる、そんな衣服だと思います。
着物って着始めるとどんどん楽しみが増え、お友達も増える不思議な衣服かもしれません。

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