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【富澤輝実子】着物トリビア:訪問着のちょこっと現代史・・・・・・・・・・

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文:富澤輝実子

訪問着は現在、祝賀会、パーティ、お茶会など晴れやかな席でほぼ万能のきものとなっています。ですが、その始まりは意外に遅く、五つ紋付裾模様に比べるとずっと最近です。ちょっと歴史をお話ししてみます。

訪問着のちょこっと現代史

生活簡略化の流れ

裕福な階層では長く五つ紋付裾(すそ)模様の二枚襲(かさね)を婚礼からお出かけ着までの礼装として着用していたのですが、明治末から大正にかけての「生活簡略化」の流れを受けて変化していきました。それは「衣服の簡便化・略装化」へも大きな影響がありました。
また、生活簡略化には畳の生活から椅子式への洋風化も含まれ、上流階級の婦人たちの会合が座敷から洋間へと徐々に変化していきました。すると、椅子に腰かけた際に上半身から見えるのは紋だけということになり、次の提言が出始めます。

裾だけでなく胸にも模様を

明治43年『婦人画報』7月号に「和服は模様が裾のみのため立ち姿は良いけれども、腰を下ろしたときには紋しか見えず、胸のあたりが淋しい」旨の一文があり、胸のあたりにも模様が欲しいというわけなのです。そして、「若い婦人方や令嬢達には、胸のあたりに裾(すそ)模様や袖の模様を小さくした、ゆかりのある模様を付けて召していただきたい」と続けています。
この後しばらくすると、両胸にも模様を付けた花嫁振袖が登場します。それまでの花嫁振袖は五つ紋付裾(すそ)模様の二枚(三枚)襲(かさね)でした。そして次に訪問着の登場となるのですが、その模様付けの変遷を記してみます。

模様付けの変遷

①五つ紋付二枚(三枚)襲裾(かさねすそ)模様の正礼装に
②両胸に模様が付く
③抱き紋※が消え
④襲(かさね)でなくなり
⑤両胸でなく、上前の胸にのみ模様が付くという流れになります。
総絵羽模様の豪華なきものはこの流れとは別に特別注文の形で製作されていました。
明治45年5月、与謝野晶子が与謝野鉄幹の待つパリに赴く際に「三越」でこしらえた訪問着が写真で確認できるのですが、総模様の友禅で大変豪華なものです。ちなみに、その時フランスで見た野原いっぱいに咲く真っ赤な雛罌粟(ひなげし)の花に、与謝野鉄幹への燃える思いを込めて詠んだ歌が、あの有名な「ああ皐月(さつき) 仏蘭西(フランス)の野は火の色す 君も雛罌粟(コクリコ)我も雛罌粟(ひなげし)」です。

※着物についている紋のうち、胸にあるものです。

訪問着の始まり

大正14年のことですが、現在の模様付けの着物を「訪問着」と呼んで紹介しているページが出てきます。他家を訪問するときや婦人方の社交の場面で用いられています。
大正初期、訪問着の名前が定着する前には、東京の老舗百貨店各社がそれぞれ「訪問服」「プロムナード」「散歩服」などの名前を付けて、襲(かさね)でなく抱き紋の付かないきものを作っていました。
訪問着は襲(かさね)で着ないぶんだけ大げさでない装い(略装)なのに、礼にかなう格式と華やかさを備えた衣服として、昭和の戦前に裕福な方々に流行し、一般に普及していきます。それは、実は戦後のことなのです。

訪問着が普及したのは戦後

画期的に普及するきっかけとなったのは、昭和34年4月10日の「皇太子ご成婚」の前に報道された「美智子様のお着物姿」でした。古典的な御所解き模様の白地の振袖や訪問着に立派な西陣の袋帯を合わせた、優美で上品な姿に多くの女性があこがれたのです。
そこから、着物ブームが起こり、訪問着は急速に一般化しました。

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