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着物トリビア

明石縮

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文:富澤輝実子

真夏の着物・明石縮

明石縮は盛夏に着る代表的なおしゃれな織りの着物です。素材は絹で縮織(ちぢみおり)になっていますから手触りはショリショリっとして心地良いのが特徴です。とてもよく透けますので涼しさ抜群ですが、その分、長襦袢が透けて見えますから注意が必要です。
さて今日は、素敵な真夏の着物・明石縮の名前のトリビアです。

明石縮の誕生秘話

明石縮は現在市場に出ている製品のほとんどが、新潟県の十日町で織り続けられています。夏のカジュアルエレガンスな装いに欠かせない現代的な絹織物ですが、意外なことに誕生からおよそ350年を経ている伝統織物でもあります。
明石縮が生まれたのは、その名の通り播州(ばんしゅう・現在の兵庫県)明石です。『明石市史』によると江戸初期、明石城の初代城主となった小笠原忠政(のちに忠真)の時代に船大工の娘・お菊が新しい織物を工夫しているときに、父親の挽く鉋屑(かんなくず)にヒントを得て、糸を撚ることを思いついたというのです。江戸初期のことですから、どのような鉋だったのか私には分かりませんが、何かの映像で見たことのある「槍鉋(やりがんな・細長い形の物)」を引いたときに出る鉋屑はクルクルっと撚れていて、女性のヘアスタイルの名称・立て巻きロールのような形をしていました。この形だとすると糸に撚りをかけるヒントになったことでしょう。お菊ちゃんは糸に撚りをかけて緯糸(よこいと)にして織ってみたのですね。するとそれまでにない、よれよれっとした織物(広い意味での縮織物)ができたというのです。その頃、日本には縮織物は豊臣時代に中国から堺に伝来し、西陣でのみ門外不出の秘法として織られていた「縮緬(ちりめん)」しかなく、広く民間にはなかったのです。お菊ちゃんの織物はたちまち評判となり、「明石縮」の名で明石の名物になりました。
その後、小笠原忠真は北九州の小倉に国替えとなったため、明石縮の技術は小倉城下に伝えられて長く小倉の名産となったといわれています。現在の小倉縮は明石縮の系譜をつないでいる織物です。江戸時代の文献『万金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』には、明石縮が播州明石から始まった「経が絹、緯が木綿」の交織織物であることが記されています。

十日町とのゆかり

十日町では古くから麻織物が盛んで、正倉院にはこの地方から税として納められた麻織物が残っています。江戸時代には麻の縮織物「越後縮」の産地でした。この麻縮の技法を絹に応用したのが明石縮です。簡単に言いますが当時の麻縮(越後縮のこと)と絹縮(明石縮のこと)は全く織り方が異なっていました。機(はた)が違うのです。小倉でも評判をとった縮織物は「明石縮」という名前で通っていました。この縮織物は西陣でも織っていたようなのです。江戸時代文政年間に西陣の織物職人・宮本茂十郎は十日町の縮商人・松屋庄兵衛に頼まれ「透綾(すきや)織」という、緯糸に強い撚りを掛けた透ける織物の技法を伝えています。これが明石縮の前身となり、明治初期には時代を代表する夏の人気織物となりました。
その後、大正時代、昭和の戦前までは人気の織物で、昭和7年には27万4千反も生産したほどでしたが、戦後は女性の衣服環境の激変で盛夏の着物はぱったりと生産されなくなったのでした。
昭和40年の『美しいキモノ』には「幻の着物」として明石縮が紹介されています。戦後見ることのない「かつて愛された懐かしい着物」としてでした。ところが、昭和57年、明石縮は「十日町明石ちぢみ」として国の伝統的工芸品に指定されます。これを機に産地では積極的に広報活動を行いました。新聞、雑誌、テレビなどで盛んに「十日町明石ちぢみ」が取り上げられることになり、次第に認知度も上がって着物愛好家の夏の一枚に加わるようになったのです。現在では、十日町を代表する盛夏の織物として愛用されています。
※明治時代に西陣で織られた明石縮は、北村哲郎著『日本の織物』(源流社刊)の中で紹介されています。『美しいキモノ』2014(平成26)年夏号に引用で掲載されていますので、興味のある方はご覧ください。
※同ページにはほかに江戸時代の越後縮を地機で織る女性の図も掲載されています。

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