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絹のみち【横浜シルク】

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文:富澤輝実子

日本の絹を掘りおこしてご紹介するシリーズを始めます。
まず初回は、日本の絹の歴史の中で重要な役割を担った「横浜」を掘ってみます。

幕末から明治初めの横浜とシルク事情

幕末、嘉永6年(1853)、三浦半島浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)にアメリカ海軍東インド艦隊の司令長官・ペリー提督率いる黒船が来航。安政6年(1859)日米修好通商条約締結、幕府は横浜を開港します。翌万延元年(1860)輸出開始となり、生糸は一躍輸出の花形となるのです。
その頃の横浜は半農半漁の小さな港町だったそうです。現在の横浜港大さん橋(おおさんばし)すぐそばの超一等地に「シルクセンタービル」が建っています。ここは元「ジャーディンマセソン商会」があったところで、この英国の貿易商館は横浜開港の年、最初に地盤を築いたことで有名です。
さて、生糸輸出が始まった頃・幕末のヨーロッパでは蚕のペストと呼ばれた微粒子病(人にうつる病ではありません、念のため)が蔓延し、蚕は繭を作る前に死んでしまうため、生糸が作れず、海外からの輸入を切望していたのです。その時期のフランスの生産量の激変ぶりが分かっていますので記してみます。フランスは今でも有名な農業国ですが、昔から養蚕を盛んにしていた農業国です。
以下は繭生産量(生糸ではありません、念のため)
●1853(嘉永6年)2万6千トン
●1865(慶応元年)5千500トン
私は数字が全く読めないのですが、およそ10年間に1/5に激減していることが分かります。繭のことと思うとあまりピンとこないかもしれませんが、ご主人様のお給料と考えるとフランス農業界の切実さがグッと身近に感じると思います。

素晴らしい日仏交流のエピソード

この切実さを語るエピソードがありますのでご紹介します。
幕末・徳川家茂将軍の時、ナポレオン3世が蚕の卵・蚕種をフランスに送ってほしいと懇請したお手紙が残っており、1865年に蚕の卵が産み付けられた「蚕紙」計3万枚が送られ、その返礼として馬26頭が1867年に横浜港に着いたことが記録されています。私は、あまりに「よくできたお話」のように感じられましたので、東京・飯倉にある外務省の「外交史料館」に伺って資料を見せていただき確認してきました。すごいですね!素晴らしい日仏交流。ちなみに、蚕紙というのは蚕蛾卵を産み付けた大きな和紙です。
興味のある方は外交史料館にいらして是非ご覧ください。どなたでも事情を話して見せていただくことが可能ですので。

国宝・富岡製糸場

さて、もちろん最大の生産国は清国(今の中国)ですから輸入を増やしたいところでしたが、アヘン戦争、アロー戦争で国が混乱・疲弊して養蚕どころではなかったのです。そこで目を付けたのが「日本の絹」というわけです。
日本には、といってもその頃はまだ日本国ではなく幕府と各藩ですが、養蚕・製糸の技術は国中にありましたが、日本国としての統一した規格がありませんでした。何はともあれ、ヨーロッパの需要に合わせて座繰りの生糸を輸出して外貨獲得を目指した様子が次の数字で分かります。
以下は生糸です。(繭ではありません、念のため。繭は生糸にするとおよそ1/5量になります)
●安政6年(1859)約292トン
●万延元年(1860)約487トン
●明治元年(1868)約725トン

ところが、需要にこたえたくとも座繰り製糸では生産スピードに限界がある上、上質で均質という点でも難点がありました。そこで、明治政府は急ぎ製糸の模範工場を建造することになったのです。当時、最高の生糸を生産し、消費していたのは王侯貴族のファッションの中心地・フランスでしたから、フランスの優れた器械製糸技術者を「お雇い外国人」として破格の高待遇で招聘し、日本の若い女性たち(工女さん)に教えてもらい、将来続々と増えるであろう製糸会社の技術者・教育者として育成したのです。それが、近年「世界遺産」に認定された国宝・富岡製糸場だったのです。富岡製糸場は明治5年の創業です。いらした方はお分かりですが、レンガ造りのどでかい建造物です。

横浜は世界に羽ばたく生糸に開かれた窓

明治政府はとにかく欧米列強の植民地にだけはなりたくないわけですから、幕末に結んだ不平等条約から早く解放されるためにも、洋風化を急いだことでしょう。そのためには「経済力と武力」が必要だったはず。そこで「富国強兵政策」をとったと教科書でならったことを思い出します。富国のための柱と頼ったのが「生糸輸出」による外貨獲得だったのです。幸い生糸は養蚕から製糸まで国内ですべて賄える産業でした。しかも優れた技術とそれを支える勤勉で誠実な国民性が何よりの宝でした。
富岡製糸場が創業してから器械製糸工場は全国各地に増え続け、
●明治9年(1876)87工場
●明治12年(1879)655工場(内358工場は長野県)
●明治44年(1911)2,500社
●大正13年(1924)3,600社
このように製糸業は日本を代表する大きな産業になっていたのです。

作られた生糸は輸出されます。製糸業は時代の花形産業でした。
幕末、生糸輸出が始まってから昭和の戦前までのおよそ75年間、全輸出品目の中で常に輸出高第一位は「生糸」でした。外貨の稼ぎ頭だったのです。現在の何に例えられるでしょうか。自動車産業あるいはIT産業でしょうか。次代の先端を行く産業界に身を置く誇りと自信に満ちた明治から大正時代の長野県岡谷で働いた工女さんの日常写真を「岡谷蚕糸博物館」の展示で見て感動しました。実に生き生きと真剣に働き、休日は映画やお買い物を楽しみ、親元に送金するけなげな日本女性の姿が紹介されていたからです。

これらの輸出は大正12年の関東大震災で東京、横浜が甚大な被害を受けた時期を除いて、横浜港から世界に運ばれました。
横浜は世界に羽ばたく生糸に開かれた窓だったのです

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