振袖は現在、二十歳の集い(成人式)をはじめ大学・短大の卒業式・謝恩会で多くのお嬢様がお召しになる「未婚女性の第一礼装」です。本来第一礼装は五つ紋付のはずですが、現在のようなほぼ総模様になってからは、紋付でなくとも振袖は第一礼装として通用しています。輝美子
〈振袖のちょこっと現代史〉
現代の振袖の始まり
明治以来、「五つ紋付裾模様」が婚礼から式典、一般的な祝賀会や社交の場面で活用されてきました。古い写真などを見ますと、振袖は若い女性のお出掛け着(社交着)として裕福な階層で広く着用されていたことが分かります。ですが、それは一部の富裕な階層のもので、一般が広く着用したのは戦後、それも昭和の30年代後半からです。
きっかけは美智子さまのお姿
昭和34年4月10日は当時の「皇太子(現上皇さま)ご成婚」の祝賀の日ですが、その前年、33年11月27日は呉服業界にとって忘れられない記念の日だったことでしょう。ご婚約内定の新聞発表があり、「皇太子妃内定 お相手は正田美智子さん」と大きな文字の号外が出され、日本中が湧きたちました。掲載されていたお写真は白地(と思われる)古典的な花束模様の小振袖をお召しの美智子様のお姿でした。新聞はモノクロでしたから色は分かりませんでしたが、当時すでに女性週刊誌の『週刊女性』や『女性自身』が創刊されていましたし、婦人誌の『主婦の友』『婦人倶楽部』『婦人生活』『主婦と生活』の4大婦人誌が全盛でしたので、そちらで見ることができました。これらの雑誌では毎号のように美智子様の写真をカラーで掲載し、読者に熱狂的に歓迎されていたのです。
その後、美智子様のさまざまな振袖姿が紙面に掲載されましたが、ほとんどは「中振袖」でした。それは、多くの若い女性が憧れる気品高く優美で知性的なお姿でしたから、女性たちの心の中に振袖を着たい思いが芽生えたのです。
そして35年、池田隼人内閣は重大な経済10か年計画を発表しました。あの有名な「国民所得倍増計画」です。「今後10年で皆様の所得を2倍にします」というわけです。実際はそれ以上に高額の所得となるのですが、これ以降日本は高度経済成長となり、好景気に沸きました。女性の高学歴化と社会進出が進み、しだいに上質なものを身に着けるようになっていきました。
そして6年後、昭和39年10月10日の記念すべき日が訪れます。世紀の祭典といわれた「オリンピック東京大会」開会の日です。この日、開会式典が行われた東京の国立競技場は晴天の抜けるような秋日和。昭和天皇の厳かな開会宣言で幕が開かれたオリンピックでしたが、メダリストの表彰式でメダルを運ぶコンパニオンのお嬢様がそろって中振袖をお召しでした。
中振袖の誕生
昭和39年というのは戦後のベビーブーム世代がそろそろ成人に差し掛かってきたころで、全国の呉服業者は振袖生産に思いを巡らす時でした。その前年、38年に「花嫁が着るような大振袖ではなく、訪問着よりも華やかな若い女性向きの装い」として登場しました。
ご成婚後の華子さまの素敵な中振袖姿から
東京オリンピックの直前には常陸宮さまと華子さまのご成婚があり、その雅なお姿も大きな話題となりました。そして、ご結婚後も華子さまが中振袖をお召しになっておられることにも皆が注目したものです。このころから中振袖が女性の礼装として認知されるようになり、振袖の主流となりました。現在、民間では国際的な社交の場面や海外でのニューイヤーコンサートやオペラ鑑賞、大規模なパーティ出席などでは、まだお子様のいない若いミセスが振袖を着用する場合もあります。ただ、国内で結婚式列席などでは、どんなに若い方でもミセスは振袖を着用しません。
振袖はお嬢様だけが着られる特別な着物
振袖は現在、成人式をはじめ大学・短大の卒業式・謝恩会で多くのお嬢様がお召しになる「未婚女性の第一礼装」です。本来第一礼装は五つ紋付のはずですが、現在のようなほぼ総模様になってからは、紋付でなくとも振袖は第一礼装として通用しています。
振袖の種類
大振袖
一般的に花嫁が着ている振袖で、袖丈が裾まであります。従来振袖はこの袖丈だったのですが、袖が裾まであると歩きにくいうえに踏む可能性もあり、動作が不自由でした。およそ3尺(110~115センチ)の袖丈。
中振袖
袖丈が膝と裾の間くらいで大振袖に比べると袖の扱いが楽で身動きしやすいものです。現在の成人式の振袖の大半はこの袖丈。およそ2尺5寸(約95センチ)の袖丈。
小振袖
主に10代のお嬢様の晴れ着で、袖丈は膝位の長さです。およそ2尺(約76センチ)で初々しく華やかなものです。卒業式の袴下の振袖にもふさわしく、ぎょうぎょうしくなく、礼にかなっています。
〈振袖の着用シーンと着こなし〉
色柄の選び方
振袖にはさまざまな地色と模様があります。基本的にはお好みで選ぶとよいのです。あるとき、取材の途中で興味深い場面に出合いました。おばあ様、お母様とお嬢様の三人で成人式に着る振袖を選んでいるところでした。おばあ様とお母様は古典的な色柄の一枚を進めているのですがお嬢様は聞き入れず、当時著名な女性小説家が「ずずぐろい」と表現した黒でもない紫でもない茶色ともいえない、黒ずんで濁った地色にやはり濁った色で絞りが施されたほうを気に入った様子で、どうも「もめて」いる様子でした。こちらも気が気ではありません。「あのずずぐろい振袖に決まったらどうしよう」とその場から離れられませんでした。しばらくすると、とうとう決着しました。お嬢様がこうおっしゃったのです。「それじゃ振袖着ないわ!洋服で行く」。このひとことで決まりです。おばあ様とお母様は折れて、「どんな振袖でも洋服で行くよりもいいわね」と、そのずずぐろいほうをお求めになりました。
成人式の時も必ず写真を撮ります。その時のご家族が喜ぶ姿で装いたいのはもちろんですが、将来のご主人やお子様、またお子様の結婚式でも装えるような上質で華やかな装いをしたいものです。
さて、色柄ですが、本当にお好みのものをお選びください。色も模様も実に様々に揃っています。まず、気に入った色のものを羽織ってみます。顔と衿のあたりをじっと見て、「いい感じ」と思ったら模様を見ます。気に入らなかったら、同じ地色で別の模様のものを羽織ってみます。これを繰り返すうちに必ず「とってもいい感じ」という一枚に巡り合えます。そのとき「へとへと」になっていても、「最高の一枚に出合うためのエクササイズだ」と思えば、エクササイズでの疲れはさわやかな疲れですから、その一枚を着る日が楽しみになるはずです。
帯の選び方
帯は振袖用の袋帯から選ぶのが決まりですから、選びやすいと思います。たいてい、赤地、金地、黒地、白地、ひわ地などに豪華な模様が織り出された袋帯が主流です。これが絶対という組み合わせはありませんから、「あ、いいな~」というご自身の感覚を信じてお選びになるとよいのです。もちろん、お身内やお友達のアドバイスは大切です。もっとも気にしておきたいのは、「趣味が(あるいは品)が良いか悪いか」ということです。せっかくの大切な日に「あれ、なあに、ちょっと間違っちゃったのかしら? 趣味悪いわねぇ」などという装いでは取り返しがつきません。
小物の選び方
「帯〆」「帯上」も振袖用の中から選びます。
「帯〆」は平打ち(組)が丸組よりも格が高いことになっていますが、お好みで選んでよいのです。
「帯上」は総絞りを選べば間違いありません。
「重ね衿」は衿にある模様の中の一色、あるいは地色の共濃、共薄で選ぶとしっくりきます。また、重ね衿は帯〆か帯上と同系色にすると装いが整います。
「草履・バッグ」は振袖用の中から選びます。
お嬢様方は大きなお財布を持たなくなった代わりにスマートフォンを持ちますから、当日中に入れるものをよく考えて、形と大きさを決めます。
「髪飾り」は華やかなものがよいでしょう。
振袖のジャンル
振袖には大きく分けて「古典」、「大正モダン」、「モダン」の3通りに分類できます。
古典
「古典」は江戸時代を中心とした着物文化華やかな時代に流行した伝統の色柄が特徴です。具体的には「草花風景模様」「御所解き模様」「琳派の模様」などと「正倉院写しの模様」などがあげられます。
大正モダン
「大正モダン」は色が強く派手で、模様は大きくて崩れています。一目見て伝統的なものとは異なった味わいがあって、そこが新鮮に感じられるかもしれません。そうかと思うと、華やかな模様はいっさい用いず、ただ地色の持ち味だけで個性を表す無地振袖にきらびやかな配色の帯を合わせることもあります。
モダン
「モダン」は白地に黒い柄や赤い柄、あるいは黒地に緑の柄というような一色で表現がされているものが多く見られます。模様は幾何柄や線柄などが多く、一見して伝統の物とは異なっていることが分かります。
それぞれ、お好みがありますから、ご自分にピッタリくるものを、何枚も何枚も方に掛けて顔写りを確かめて選んでいただきたいです。
〈KIMONOプロジェクト(振袖)〉
KIMONOプロジェクトととは!世界213か国を映した振袖と帯
「2020東京オリンピック・パラリンピック」が「トーキョー」と決まった2013年、福岡県久留米市の呉服店・蝶屋主人の高倉慶応氏は、世界がひとつになるオリンピック・パラリンピックが日本で開かれることに触発され、「海外からのお客様に自分もなにかオモテナシができるかもしれない」と考えました。
海外の国々の文化を知りたいと思い、日本の文化も発信したいと考えたのです。
呉服店主の自分ができることは何かと考えるとき、身近にあったのが着物でした。
日本文化の代表として「着物」を考えたのです。
そこで、世界各国をイメージした振袖と帯を、日本の最高の伝統技術で作り上げようと決めました。
日本各地の伝統技術の継承・発展、若手作家の育成までも含めて一流の制作者を人選し、最高の物づくりをするために「KIMONOプロジェクト」を立ち上げました。制作費は一か国につき着物に100万円、帯に50万円、仕立て・小物などに50万円と決め、個人と法人からの寄付で賄うことにしました。
初めは誰にも相手にされず苦難の道と思われましたが、「KIMONOプロジェクト」の趣旨と目指すところを説明しているうちに、少しずつ理解・賛同してくれる人が増え、ついには日本を代表する大きな会社や団体、もちろん大勢の個人の方々に支えられて続けてこられました。各国大使館に伺ってその国の風土・習慣・文化を教えていただきながら交流を深め、作り続けました。
それから7年。世界213か国それぞれの文物・伝統・習慣までも映した素敵な振袖と帯が出来上がったのです。その213組の振袖と帯はみんな違ってみんな素敵。エネルギーのほとばしる見事な作品群でした。
高倉氏が考えたのは
①日本の最高の材料を用いること
②最高の伝統技術を用いること
③産地がかたよらないこと
どの国に対してもリスペクトの気持ちが表現された、見事な作品に仕上がっていました。
オープニングセレモニー:各国大使館より大勢のお客様がセレモニーにご出席されました。
新型コロナ感染防止の観点から手がつなげませんので、リボンで輪をつなぎました。
取材する富澤輝実子と解説してくださった刑部優美帆さん
高倉氏と富澤。千總製作「日本」の前で。
メモを取る富澤。
「2020着物に世界を映す」京セラ美術館
新型コロナの影響で美術館はどこも入場者の制限もせざるを得ない状況の中、京セラ美術館にて2020年10月16日(金)、17日(土)、18日(日)開催。30分刻みで100名の申し込みを受け付けて、すべて満員。
お客様は着物の方が大変多くて、嬉しくてたまりませんでした。私は東京からの新幹線の車中などを考えて大島紬を着て行ったのですが、染めの着物の方が多かったように見えました。もちろん紬の方も、木綿の方もいらっしゃってにぎやかでした。
取材の帰り道のお客様の顔には満足げな様子がにじみ出ていました。
京都駅で帰りの新幹線を待っていると、私と同年配の奥様が「大島、いいですね~」と声を掛けてくださいました。「今日はなんだか、着物のおひとが多いですね。何かあったんですか?」と関西弁で聞いてくださいましたので、ひとしきり「2020着物に世界を映す」京セラ美術館の催しを話してお別れしました。
KIMONOプロジェクトのきっかけ
富澤輝実子(以下富澤)
髙倉さんは九州で呉服店を経営されているのですか?
髙倉慶応(以下髙倉)
そうです。久留米で祖父が始めた呉服店を継ぎました。父は京都の千總との付き合いが割合深くて、その縁で川島や龍村の帯も扱い、趣味の良い品揃えでした。
富澤 「KIMONOプロジェクト」を始めたきっかけを教えてください。
髙倉 平成25年9月に「2020東京五輪開催」という報道があったときですね。この「平和と文化の祭典」で、海外からのお客様に日本人として私も何かおもてなしができるような気がしました。世界各国それぞれの文化を深く知りたいと思いましたし、日本の文化を通して「和の心」を発信したいと考えたのです。
着物にはには神秘的な力があります。
富澤 日本の文化の代表として着物を選んだのですね。
髙倉 きものは身近にありましたし、人を感動させる神秘な力があります。
富澤 すぐ制作に取りかかりましたか?
髙倉 未来に受け継がれる最高の作品を目指しましたから、工芸的価値の高さはもちろん、伝統技術の継承・発展、若手作者の育成も考えてバラエティ豊かな人選を心掛けました。そこで個人一口千円から、法人一口一万円から寄付を募集しました。また、「特定の一カ国のKIMONOを支援」するネイションスポンサー(一カ国二百万円)と、「国にこだわらず、すべての作品および活動を支援」するグローバルスポンサー(三百万円)の制度を作り、制作費を集め始めました。多くの方に会ってプロジェクトの主旨と目指すところを説明しているうちに、しだいに賛同する方ができ、翌平成26年に一般社団法人「イマジンワンワールド」設立、同年には「きものサローネin日本橋」で6カ国の振袖を発表できました。その後、平成28年に振袖着用で「安倍首相表敬訪問」「G7北九州エネルギー担当大臣会合」、平成29年、「アジア開発銀行50周年年次総会」、「第8回太平洋・島サミット」平成30年、「百カ国完成披露式典」、総理夫妻主催晩餐会にておもてなし、平成31年、「関西領事団150周年記念ガラディナー」にて高円宮妃久子殿下はじめ各国大使・領事にお披露目、など大きく認知されてきました。
現在150カ国完成し、制作費は残り20カ国分ほど必要な状況まで参りました。
富澤 2020東京五輪の年、完成。
髙倉 どの国に対してもリスペクト(尊敬・尊重)する心が表現された素晴らしいKIMONOになったと思います。「着物で世界がひとつになる瞬間」を夢見ています。富澤 楽しみですね。本日はありがとうございました。
KIMONOプロジェクト大好きな国をサポート!
大好きなこの国をサポートしています。
イマジンワンワールドの全てのKIMONOは、プロジェクトの理念に賛同された方からの寄付金によって制作されています。一か国分を一括で支援するスポンサーの他、特定の国への理解と交流を深めながらKIMONOの制作資金を集める活動をしているグループがあります。その活動に参加し、KIMONOを通してその国の繋がりが実感できるのではないでしょうか。
グアテマラのサポーター代表は田島聡子さん。
富澤輝実子(以下富澤) 田島さんは大分で音楽を中心に演劇など幅広く芸能活動をしていらっしゃる方とお聞きしましたが、グアテマラの「KIMONO」のサポーター代表になったのはどんなご縁からですか?
田島聡子(以下田島) 私は父が日本人で母がグアテマラ出身なのです。ですから私には二つの祖国があって、一方の祖国・グアテマラと日本の両方の役に立ちたいと考えたのです。私の将来の夢は芸能を通じて日本とグアテマラの橋渡しができる人になることです。
富澤 グアテマラはどんな国ですか?
田島 メキシコと接している中米の国です。人口はおよそ1700万人。少ないように感じるかもしれませんが中米では最多です。マリンバが国民楽器となっていてラテン音楽が盛んに演奏されています。グアテマラをイメージした振袖に感動しました富澤 「KIMONOプロジェクト」の振袖のでき上りを見ていかがでしたか?
田島 グアテマラが誇るマヤの遺跡や自然、国鳥のケツァールや国花の蘭などが全体にデザインされていて、彩色も華やかで素晴らしいと思い、感動しました。
多くの方にご覧いただきたいと思います。
エクアドルのサポーター代表は奥野玉紀さん。
富澤 エクアドルのサポーター代表になったきっかけを教えてください。
奥野玉紀(以下奥野) 高校生の時にエクアドルに留学していたものですから第二の故郷のような国なのです。
富澤 エクアドルの国のことを思い出とともに教えてください。
奥野「 エクアドルは南米のなかでは小さな国で、赤道直下にあります。アマゾンとアンデスと太平洋沿岸とガラパゴスの、気候風土の異なる四つの地域からなっています。
私は首都・キトから少し南の標高3000メートルくらいのアンデスの町でホームステイしたのですが、朝日が昇るころ家を出て学校に行きました。その時間帯はとっても寒くて冬のようなのに、赤道直下の国ですから昼間は暑くて真夏のようになります。一日の中に一年の気候があるというのが特徴でした。また、卒業記念で行ったガラパゴス諸島の自然と生物に感動して、本当はガラパゴスのガイドになりたかったのですが法律が変わってしまって現地に住めなくなったのです。それなので帰国後、大学では生物学を学びました。
富澤 エクアドルと日本とのゆかりはどんなことがありますか?
奥野「 百年前に野口英世博士がエクアドルのグアヤキルという都市に黄熱病の研究で入られました。千円札の野口博士の肖像はグアヤキルで撮られたものです。また、昨年は日本とエクアドルの外交百周年の年でした。それを記念してAma la vidaというグループを結成し、エクアドルのことを日本で紹介するイベントを行いました。エクアドル先住民の生活、音楽、踊り、チョコレート、バナナ農園をされている日本人のバナナなどを紹介し、大好評でした。
Ama la Vidaとは「生命を愛する」という意味です。日本とエクアドルをつなぐKIMONO富澤 「KIMONOプロジェクト」の振袖を見ていかがでしたか?
奥野 「エクアドルの四つの異なる地域が特徴を捉えて描かれて素晴らしいです。昨年の百周年イベントでエクアドルに関係する多くの方々と出四会いました。皆様に是非見ていただきたいと思いました。
〈袴のちょこっと現代史〉
女性の袴姿!
現在の卒業式で見られる先生や女学生の袴姿はすがすがしく、いくぶん憧れをもって眺める方もおありと思います。ですが意外なことに江戸時代、基本的に女子は袴禁止でした。では、なぜ明治の女学生は揃って袴を着用したのでしょうか? 今回は女学生と袴について学びましょう。
明治の女学生の始まり
江戸時代までの女子教育は主に家庭教育ですから女学生というのはなかったのです。でも諸外国とは少し違って識字率は高く文字の読み書きは多くの女子ができたのです。幕末に「ペリー来航」を機に日本は横浜に港をひらき開国しました。そして欧米の文化が怒涛のように押し寄せることになったのです。そのひとつが「女子教育」と言えるでしょう。日本で最初にできた女学校は横浜の「フェリス女学院」で、明治3年のことです。ですがこちらはキリスト教の布教活動の一環としてのものですから、必ずしも日本女性として必要な教養が満たされる内容だったわけではなかったようです。日本人女性のための女子教育のはじまり海外の方が見た日本人女性というと(イメージかもしれませんが)、しとやかで慈しみ深く、思いやりがあって控えめなのに芯が強い、というところではないでしょうか? 現在は異なる状況ですか? 日本女性らしい教養を身に着ける女子教育の始まりは、「お茶の水」からでした。
官立女学校の袴は男子と同じ木綿の男袴
官立(国立)初の女学校・東京女学校(お茶の水女子大学付属中学・高等学校の前身)ができたのは明治6年、ここでは寺子屋のように座卓の前に正座して学ぶのではなく椅子に腰かけて授業を受けることが多くなり、さらに運動(体操)の時間もありましたから、着物姿では前がはだけてまことに不便だったと思われます。そこで男子の普段袴だった木綿の袴をはくようになったのです。当時の写真など見ますと、学内の授業風景では裁縫は正座していますが、そのほかはほとんど椅子に腰かけて授業を受けていますし、運動会や富士登山などという勇ましい姿もあります。もちろん着物に袴を着けた姿です。このように活発に活動する女学校生活に袴は欠かせない衣服となっていきます。初の女袴は跡見女学校の紫のメリンスの袴本邦初の私立女学校の女子教育者は跡見花蹊(あとみ・かけい)女史です。跡見学校(女学校)は明治8年の創立。跡見先生は皇族・華族の子女のために日本人女性としての高い教養と人徳を身につける教育から始まり、一般の子女にも範囲を広げた女子教育の先駆者で知られています。ここでは、木綿の袴ではなくウールのメリンスの袴が用いられました。色は紫です。この色にはエピソードがあります。
跡見先生は皇族・華族の子女を多く教育していたことから、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)に近しかったのでしょう。女学生の袴の生地と色を決める際にお尋ねをされたそうです。すると昭憲皇太后からは「色は紫がよかろう」とのお言葉を賜ったといいます。それで、跡見女学校は袴の色は紫と決め、生地は軽くて柔らかく動きやすい利点からウールのメリンスが選ばれました。これが女学校初の女袴の誕生です。
明治18年創立の華族女学校も紫の袴をはきました。
その後続々と開校された女学校ですが、全国的に見れば格別裕福で教育熱心な家庭の子女が学ぶところで、まだまだ女学生は少なく憧れの対象でもありました。ですから憧れの女学生が男袴をはく(男装をする)ことへは多くの批判がありました。しとやかでエレガントな女性像が求められた時代ですから当然なことかもしれません。
えび茶色の袴は下田歌子(しもだ・うたこ)女史の開いた実践女学校から始まり、次々と各校で採用されてブームとなり、女学生の制服のように認識されたようです。
現在の女性の袴
現在では、女子の袴は卒業式・卒園式で多く用いられています。女学生もそうですし、先生方の袴姿もキリリとして薫り高い姿に映ります。
卒業式の先生の装い昔から卒業生の担任の女先生は紋付の着物に袴スタイルで、卒業式の第二の主役でした。現在でも卒業式に袴スタイルで出席される先生はかなりおられて、式典に品位と華を添えているのです。
そこで、現代にふさわしい学校式典の装いを考えてみます。
〈女袴の着用シーンと着こなし〉
校長先生の場合
黒紋付(黒留袖も可)に紫の袴あるいは濃い海老茶の袴
色無地紋付に黒の袴
色無地紋付に濃い色の袴
担任の先生の場合
年代に合わせた色無地紋付などに黒い袴か濃い地色の袴
※年代というのは、例えば幼稚園や小学校の先生でまだ若い先生の場合は、ご自身が大学の卒業式で着用した小振袖という長い袖の色無地や訪問着、御所解きなどの友禅小紋に袴を合わせた姿でよろしいと思います。小振袖というのは通常の袖丈よりも長く振袖よりも短い袖丈です。
〈富澤輝実子プロフィール〉
染織・絹文化研究家:富澤輝実子(とみざわ・きみこ)
1951年(昭和26年)新潟県生まれ。婦人画報社入社。『美しいキモノ』編集部で活躍。
副編集長を経て独立、染織・絹文化研究家として活動。誌面「あのときの流行と『美しいキモノ』」連載。
婦人画報社:現ハースト婦人画報社https://www.hearst.co.jp/
美しい着物編集部での活動
昭和48年:婦人画報社(現ハースト婦人画報社)入社、美しいキモノ編集部に配属。
入社した頃はまだまだ着物業界華やかなりし時代で、毎号超一流のカメラマンが超一流の女優さんをモデルに最高の着物姿を撮影してくださいました。
この時代は、貸しスタジオがさほどありませんから、ご自分でスタジオを構えているカメラマンのところに伺いました。
最も多く行ったのは麻布霞町(現在の元麻布)にあった秋山庄太郎先生のスタジオでした。
「本格派のきもの」というテーマでは大女優、名女優が毎号お二人出てくださいました。
当時の編集長がページの担当で私たち新人はアイロンかけのために同行。
当時のバックナンバーを見てみると、岡田茉莉子さん、十朱幸代さん、小山明子さん、星由里子さん、佐久間良子さん、三田佳子さん、司葉子さん、有馬稲子さん、岸恵子さんなど錚々たる方々です。
取材
産地取材:明石縮、伊勢崎銘仙、越後上布、江戸小紋、大島紬、小千谷縮、加賀友禅、京友禅、久留米絣、作州絣、塩沢紬、仙台平、秩父銘仙、東京友禅、西陣織、博多帯、結城紬、米沢織物など各地に。
人物取材:「森光子のきものでようこそ」の連載。森光子さんが毎号おひとりずつゲストを迎えて着物姿で対談をしていただくページで、浅丘ルリ子さん、池内淳子さん、千玄室大宗匠、中井貴一さん、人間国宝の花柳壽楽さん、東山紀之さんなど華やかなゲスト。
海外活動
娘時代から続けてきた茶の湯の稽古が思いがけず役に立つときがやってきました。
海外における「ジャパニーズ・カルチャー・デモンストレーション」のアシスト。
バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ベラルーシ、ロシア・サンクトペテルブルク
日本文化の普及活動のお手伝いをしています。
講師として
大学や専門学校で「日本の染織」「着物現代史」「世界の民族衣装」の授業を担当。
NHKカルチャーでは「着物の基本」をレクチャー。
早稲田大学の「早稲田のきもの学」の講師。
〈会社案内〉
水持産業株式会社
https://www.warakuan.jp/
〒933-0804富山県高岡市問屋町20番地
TEL:0120-25-3306
理念:世の為、人の為、共に働く仲間の幸福と成長のために
目標:着物で笑顔がいっぱいに、地域に愛される会社・最大売上最小経費を実践し、次世代(みらい)へ繋ぐ
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