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日本の絹の歴史

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文:富澤輝実子

日本の絹の歴史は長く、遥か昔から生産されてきました。江戸時代には絹のほとんどは輸入に頼っていましたが、明治からは世界一の輸出国となりました。私たちが着ているきものの大半は絹でできています。日本人は絹が大好きなのですね。あの有名な世界遺産「富岡製糸場」の果たした役割も交えてお話しいたします。

日本で絹を作り始めたのはいつ?

絹ってなんの糸?

とり肉が何の肉か知らない若者がいると聞いてびっくりしましたが、では「絹」は何からできているのでしょうか? 絹は繭(まゆ)から引き出した糸でできています。繭は蚕(かいこ)という昆虫が蛹(さなぎ)になるときに、自分の口から吐いて作る小さな家です。ですから、絹は繭の糸です。蚕は糸を吐き始めてから吐き終えるまで途切れることのない一本の糸で繭を作ります。その長さは千数百メートルにもなります。
絹の糸には繭から直接糸にする「生糸」と繭を真綿(絹綿)にしてから糸に引く「紬糸」があります。

真綿(まわた)って何の綿?

真綿は繭を開いて作るものですから絹の綿です。通常の綿は木綿の綿です。綿花を紡績して糸にしたもので作ります。お布団やきもののふき綿などに用います。

さて、絹の歴史に入ります

絹の始まりと日本の歴史

絹の始まり

先ほど記しました蚕という昆虫を飼って繭を収穫することを養蚕と言います。養蚕は蚕を育てて繭を収穫する農業なのです。その養蚕が始まったのは5000年ほど前の今の中国と言われています。蚕には先祖があってそれはクワコという野生の昆虫です。クワコを飼いならしたのが蚕です。蚕の吐く糸から生糸を取ることを初めて思いついたのは、5000年ほど前の中国の伝説的黄帝の皇后・ルイソと言われています。ルイソ皇后は蚕が繭を作るところをじっと見て、繭糸が一本の糸であることを知り、吐いたとおりに引けば糸になると思ったのでしょう。繭から糸を引き出す技法は当時画期的な先端技術だったはずですし、蚕は王宮で后妃と女官たちが密やかに飼い、繭から引いた絹の糸は薄絹に織られて、宮中でのみ用いられていました。また、その製法(養蚕と製糸の技法)は門外不出の秘法で、蚕やその卵の持ち出しは死罪をもって禁じられていたそうです。絹糸はそれまで用いられていたウールなどの柔毛や麻などの植物繊維とは異なり、軽くて薄くつややかで、きれいな色に染まるなど特別な長所を持っていました。しだいにその価値は対外交易の場で金に匹敵するようになっていきました。
中国で生まれた絹をヨーロッパでは何の繊維か分からず、動物繊維はみな羊の毛と思ったのでしょう、「東洋には長い金の毛を持つ羊がいるらしい」と考えられていたそうです。
このお話はフランスのパリ・アジア協会会員・リュセット・ブルノア夫人の『シルクロード』(長澤和俊 伊藤健司訳 河出書房新社)によります。

邪馬台国の女王卑弥呼の時代から絹はあったの?

さて、日本ではいつごろから絹を作り始めたのでしょう。それは3世紀、卑弥呼の時代に養蚕がなされていたと『魏志倭人伝』が伝えています。私は岩波書店の『日本古典文学大系』のなかの『古事記 祝詞』で仁徳天皇のお話しのところで初めて目にしました。仁徳天皇という方は素敵な方だったらしく「モテモテ」に描かれています。あるとき皇后イワノヒメは立腹し王宮を出て実家に向かいます。実家というのは奈良の豪族の葛城族です。その途中で奴理能美(ぬりのみ)という渡来人の家に立ち寄ります。なぜ立ち寄ったかといいますと奴理能美が奇しき虫を飼っているというのです。その虫は蚕でした。奴理能美はイワノヒメ皇后に奇しき虫を奉りました。その虫を皇后は宮中で飼ったことでしょう。
これは『古事記』の中のお話しですが、『日本書紀』では仁徳天皇とイワノヒメ皇后の孫・雄略天皇紀に養蚕を勧めたことが記されています。

江戸時代の日本と養蚕業

どんと飛びますが江戸時代、日本は驚きの絹の輸入国でした。日本人は本当に絹が好きなために、清国(今の中国)からどんどん買い続け、絹は輸入の最大品目でした。あるとき、それは新井白石の活躍した時代でしたが、徳川幕府が開始時に持っていた金貨の四分の一、銀貨の四分の三が輸入品の支払いで流出してしまっていたといいます。(『絹と木綿の江戸時代』山脇悌二郎著 吉川弘文館)。そのことは新井白石の『折りたく柴の記』(岩波書店)に詳しく出ています。新井白石は教科書で習いましたように、江戸中期の儒学者で将軍の最高顧問だった人物ですが、上記の文中に、あるとき長崎奉行所から幕府に「輸入した品物の代金が多すぎて支払いができない」旨の知らせがあったというのです。贅沢品の支払いのためにこれほどまでに金銀を持ち出していては国が傾くと危機感を持った幕府のとった政策はいくつもあるのですが、一つは西陣(高級織物はすべて西陣で作られていましたため)に「輸入糸ではなく国産糸を使うように」と命じ、もう一つは各藩に「養蚕をして国産糸を作るように勧奨」する「養蚕勧奨」のお触れを回します。ここから各藩で養蚕が盛んになり、上質な生糸の生産とその副産物の紡ぎ糸から農家の副業として、各地で紬織物が盛んになったのです。上質な生糸は高価な取引で西陣(都)に運ばれ、高級織物に変身していきました。
そして、各藩各地で生糸に引くことのできないくず繭、汚れ繭、出殻繭などは真綿に開いて手で糸を紡ぎ出し、周辺の草木や根を煮出した液で染め、手機(てばた)に掛けて織り上げたのです。これを「自家用」と言い慣わしていたのですが、多くは自家で用いるよりも近在の市(いち・定期的に開かれる商取引の市場)に各自が持ち寄り、交換したり商人に売り渡したりしていたようです。それは農家にとって貴重な現金収入となったのです。いまでも、各地に残る朝市や瀬戸物市、金物市、人形市や農作業に必要な物品の市、竹細工や木工品市などに名残が見られます。
この各地でなされていた養蚕、製糸、機織りの技術は明治維新後の日本を大きく助けることになりました。

ペリー来航と絹の輸出

幕末嘉永6(1853)年のペリー来航を機に幕府は横浜に港を開きます。開港初年・安政6(1859)年、すぐさま貿易商が商館を構えます。最初にできたのは、英国のジャーディン・マセソン商会。今、シルク博物館のあるところです。次にウォルシュ・フォール商会(米国)、デント商会(英国)などが続き、3年後には56館、9年後には120館をこえるほどに貿易が盛んになりました。貿易商が最も買いつけたがったのは生糸でした。

外国の貿易商が生糸を欲しがったわけ

幕末のころ、ヨーロッパでは微粒子病という蚕の病気が蔓延し、蚕は繭を作る前に死んでしまい生糸が払底していました。頼りにしていた清国(今の中国)はアヘン戦争などで十分に養蚕ができずにいました。そこで、日本の生糸に注目したのです。各国の貿易商は日本からまず生糸を買い付けました。生糸輸出の始まった万延元(1890)年の総輸出品目における生糸の割合は65.6パーセント。それ以降毎年70パーセント前後で推移しています。生糸は輸出の花形、稼ぎ頭だったのです。
フランスがどのくらいの打撃を受けていたのか数字がありますのでご紹介します。嘉永6(1853)年、繭(生糸ではなく繭。生糸にすると5分の1量になります)生産量は2万6千トンです。慶応元(1865)年5千5百トンとおよそ5分の1に激減しています。これはフランスの繭のことですから「へ~ッ、そうだったんだ~」くらいに思いますが、ご主人のお給料と考えると、その切実さが理解できます。
明治政府は押し寄せる欧米列強の植民地にだけはなりたくないわけですから、富国強兵政策をとります。脆弱な国力ではすぐに列強に飲み込まれてしまいます。
そこで、富国のための殖産興業の柱と恃(たの)んだのが「生糸輸出」だったのです。江戸時代すでに全国各地で養蚕・製糸の技術があり、しかも国内にあるものだけで製品(生糸)ができますから、頼れる商品だったのです。ところが、各地で作られる生糸には品質にばらつきがありました。当時は日本国の統一基準がなかったのです。そこで、急ぎ、上質で均質な生糸を作るための施策が必要になり、「上質で均質な生糸を作るための模範工場」として「富岡製糸場」をいわば突貫工事で造ったのです。フランスからお雇い外国人を破格の高給で迎え、フランス式の製糸技術を学ぶ工女さんを募集して育成し、各地に続々とできることになる製糸工場で教える役割を果たしてもらいました。
富岡製糸場は明治5年に操業開始しますが、明治中期には民間に払い下げられ、最後は日本一の製糸会社だった片倉工業が操業し、操業終了後も「売らない、貸さない、壊さない」方針を掲げてあの巨大な建造物を維持し続けました。片倉工業の果たした役割も永遠に輝き続けるでしょう。

世界一となった日本の生糸輸出

明治時代は生糸生産が大変盛んでした、それまで世界一だった清国に追いつけ追い越せで生産し続け、さらに優れた蚕品種の開発や技術開発も行われ、とうとう明治42年に世界一の生糸輸出国となりました。輸出が始まった幕末から明治、大正、昭和の戦前までの80年弱、生糸は日本の総輸出品目の中で常に第一位、輸出の花形であり続けました。そこで得た外貨で鉄道や重工業の施設や備品、工業製品の原料輸入の支払いをし、日本の近代化に多大な貢献をしました。

生糸の通った道

生糸は横浜港から船で出発するとず~っとアフリカの先のケープタウンに行き、ぐ~っと上ってロンドンに行きました。ロンドンに生糸の市場がたっており、そこから実際使われるイタリアやフランスに売られていました。ところが明治2年スエズ運河が開通します。するともうケープタウンまで行かなくてよくなりました。スエズ運河をとおるとそこは地中海で、すぐそこにフランスのマルセイユ港があります。生糸はマルセイユに直行できるようになりました。

もうひとつ良いことがありました。アメリカで南北戦争が終結して、明治2年に大陸横断鉄道が開通しました。もう、太平洋を横断してサンフランシスコに着けば、鉄道でニューヨークに行けることになったのです。

そして明治20年代から米国が最も多量の生糸を輸入する、日本にとっての上顧客となっていきます。米国が消費する生糸の中で日本産はこのころおよそ50パーセント、大正2年で70パーセント、昭和7年で94パーセントです。しかもこの年世界に流通した生糸のおよそ88パーセントは米国で消費しています。日本の生糸が世界一だった輝かしい時代です。生糸の栄光を語る数字と言えるでしょう。

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